僕たちはなぜ「自己洞察」が苦手なのか?

「自己洞察」をすると必ず「自己嫌悪」に陥る

「自分のネガティブと付き合う」
ということを、別の言葉で言うと
「自己洞察する」ということです。

この「自己洞察」は、
「自分を成長させるのにすごく効果がある」
というか、

「自己洞察なくして自己成長なし」
と断言してしまっていいくらい
なのですが、
やっぱり簡単にうまくいくわけではない。

それが簡単・スムーズにいかない理由は、
「自己洞察」が上手くできると
必ず「自己嫌悪」に陥る
という原理が働くからです。

「自己洞察」というのは、
「自分自身を見つめて理解・把握する」
ということなので、

「自己洞察」が上手にできる、
ということは、

「自分のダメな部分、弱い部分、
 ネガティブな部分もはっきり見える」

ということと同じなのですね。

僕たちは「自己嫌悪」にひどく苦しむ

正しく「自己洞察」ができてくると、
「自己嫌悪」に陥るのが当たり前
であって、むしろ、

「自己嫌悪」に陥らないうちは、
まだまだ「自己洞察」ができていない!
と言っちゃってもいいくらいです。


自分の嫌な部分を直視しなきゃいけない。

その不快さ、惨めさ、情けなさ、頼りなさ。

その時に僕たちは、
(どうもネガティブな感情を感じそうだぞ)
と、先読みする。


だから「自己洞察」が、

あまり好きじゃなくなります。

あまり好きじゃないので
実践することも少なくなります。

その結果、「自己洞察」が
あまり得意じゃなくなります。

第一、
「自己洞察」のやりかたについてまっとうな教育
というものもなく、

ついでに、
「自己嫌悪」に陥った時の、
フォローやリカバリーのやりかた
も、誰も教えてくれなかった。

そんな現代社会ですから、なおさら
「私は自己洞察が大好きです!」 
という人は少ないのだと思います。

「自己嫌悪」を乗り越えるのは「自己受容」

僕自身が経験して感じてきたのは、
「自己洞察」の次には「自己嫌悪」が待っていて、
そして、

その「自己嫌悪」を乗り越えるのは、
自分自身を慈しむ「自己受容」である
ということです。

自分自身を見つめていくうちに、
ありのままの自分の弱さ、醜さ、

そういったものに傷ついて嘆く。

その後にどうするのかといえば、

結局のところ、泣いても笑っても、
自分という存在は、
この世の中で自分しかいない。

だから、弱くて醜い自分だけど、
それでも愛しく感じて慈しむ。

そうやって、自分自身を癒して、
自分を大切に扱って生きていく。


その経緯を経験することなのです。

そうすると、今よりもちょっとだけ、
「自分らしく」生きる覚悟と勇気が、
少しずつ湧いてくる。

「自己洞察」、「自己嫌悪」、そして「自己受容」。
それが「自己成長」の流れなのだ。

そのように僕はつくづく感じています。

僕たちが人生において傷つくことすら、
人生を成長していくことなのだ
と、しみじみと思う時すら、あるのです。

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